『手紙のかわりに』 第1話:名前のない犬

第1話『名前のない犬』
部屋の隅に置いたベッドの上で、犬はずっと動かなかった。
壁に寄り添うように丸まって、目だけをこちらに向けている。
吠えもしないし、尻尾も振らない。ただ、じっと。
部屋の中に響くのは、エアコンの低い唸りと、私の足音だけだった。
「…まるで私みたいね」
ふっと、思わず口からこぼれた。
その言葉に、犬が一瞬だけまぶたを動かしたように見えたけれど、気のせいだったのかもしれない。
引き取ったのは、昨日の午後。
駅前のスーパーで偶然手に取ったチラシに、「保護犬譲渡会」という小さな文字があった。
たまたま休みだったこともあって、ふらっと立ち寄っただけ。
特に犬が好きだったわけでもない。というより、飼った経験すらない。
だけど、ケージの中で俯いていた一匹の雑種犬が、私を見た。
いや、見ていたような気がした。
他の犬たちは尻尾を振って近づいてきたり、甘えるように鳴いたりしていたけれど、
その子だけは、何もせず、じっとこちらを見つめていた。
黒くて、何色とも言えない濁った目。毛並みはぼさぼさで、耳の先は少し切れていた。
“この子は人が苦手で、吠えないんです。でも、攻撃性もないので飼いやすいですよ”
スタッフの女性がそう言った。
「なんだか私と似てるな」と思って、気づいたら「この子にします」と答えていた。
「名前、何にしようか」
夕食後の静かな部屋で問いかけてみた。
でも犬は、身じろぎひとつしない。
「昔ね、名前のついてない手紙を書いたことがあるの」
返事はもちろんない。
私は少し笑ってから、キッチンに戻り、湯気の立つカップを持って戻った。
温かい紅茶。けれど、全然味がしない。
「その手紙ね、誰にも渡せなかった。宛先も、名前も書けなかったから」
犬の耳が、少しだけピクリと動いた。
私はその様子に、なんだか救われたような気持ちになった。
ソファに座ると、疲れが一気に押し寄せる。
編集部の仕事は忙しい。昨日も、上司から原稿の修正を3回戻された。
「もう、どうでもいいや」
そんなふうに投げやりな気持ちになったことは、一度や二度じゃない。
でも、今はただ、この無言の犬と一緒にいる空気だけが、少しだけ私をまっすぐにしてくれる。
「名前、まだつけなくてもいいよね。…少しずつ、考えていこうか」
そう呟いたとき。
犬がほんの少し、首を上げた。目が合った。
どこか遠い昔の記憶を見ているような、そのまなざしに、胸がぎゅっと締めつけられる。
私は、また涙をこぼしてしまいそうになった。
部屋の隅。名前のない犬。
名前を呼ぶことも、呼ばれることもなく、今日まで生きてきたその子。
そして、誰にも宛てられなかった手紙をずっと心に抱えていた私。
ふたりの、静かな時間が始まった。