『手紙のかわりに』 第2話:少しずつの変化

第2話『少しずつの変化』
朝、カーテン越しの光が部屋をうっすらと照らす頃、私はゆっくりと目を開けた。
いつもなら、出勤ギリギリまで眠っていたはずのこの時間。
けれど、犬が来てから、ほんの少しだけ早起きになった。
私の目の先、部屋の隅。
あの子は、昨夜と同じ場所で静かに丸くなっていた。
でも今日は、目が開いていた。
起きてるのか、眠ってるのか分からない、そんな半分だけの表情で、私を見ていた。
「…おはよう」
声に反応するように、犬の耳が小さく動いた。
それだけで、少しうれしかった。
最初の頃は、エサを器に入れても、口をつけるのは私が離れた後だった。
だけど今は、私がキッチンに立つと、そっと体を起こして器の方に向かうようになった。
まだ、目を合わせることはない。
声をかけても、反応はわずか。
でも、確かに何かが“少しずつ”変わっている気がする。
仕事から帰ってきたのは、夜の10時を過ぎた頃だった。
疲れきってドアを開けると、静かな部屋にほのかな空気の変化を感じる。
「ただいま」
そう言っても、犬は鳴かない。尻尾も振らない。
でも、寝ていたはずのあの子が、こちらを一度だけちらりと見た。
その“ちらり”が、今日はなぜかとても大きな一歩に思えた。
お風呂から上がって、ソファに腰を下ろす。
足元には丸めたブランケットと、読みかけの小説。
そして、そっと置いておいたもうひとつのクッションの上に、犬が静かに寝そべっている。
「ねえ、今日さ、また校了ギリギリだったんだよ」
ぽつりと、独り言のように話しかけてみる。
「この仕事、正直もう辞めようかなって思ってた。…でも、まだやってみたいこともあってさ」
犬は何も言わない。
けれどその沈黙が、否定でも肯定でもなく、ただそこに“いてくれる”だけで、私は話し続けられた。
夜が深くなるにつれて、部屋の灯りも落としていく。
ソファから立ち上がり、犬のいる場所にブランケットをそっとかけた。
あの子は目を閉じたまま、ほんの少しだけ体をゆるめたように見えた。
名前をつけるのは、もう少し先でいい。
無理に距離を詰めず、焦らず、待っていよう。
そう思えるようになったのは、この子のおかげだ。
眠る前、私は机の引き出しをそっと開けた。
中には、まだ開いていない白い封筒が一枚。
書きかけの、いや、“書けなかった”手紙。
名前も宛先もないその手紙を見つめて、私は小さく息を吐いた。
「…おやすみ」
灯りを落とした部屋で、犬と私の一日が静かに終わっていく。