『手紙のかわりに』 第4話:名前をつける日

第4話『名前をつける日』
土曜日の午前。
窓の外は快晴で、カーテンの隙間から差し込む陽射しが床に模様を描いていた。
ベランダには洗濯物が風に揺れている。
部屋の中には、穏やかな紅茶の香り。
そして、その中心に、今はあの子がいる。
ソファの足元。私の膝に頭をのせるようにして、静かに眠っていた。
ほんの数週間前までは、壁に背を向けて縮こまっていた犬。
それが今、こんなにも無防備な姿で寄り添ってくれている。
「……ねえ、そろそろさ」
私は紅茶を片手に、そっと声をかける。
「名前、つけてもいいかな?」
最初の頃は、名前を呼ぶなんておこがましいと思っていた。
呼んでも、返ってこない気がして。
呼んだら、壊れてしまう気がして。
でも、今は違う。
この子と過ごす時間の中で、私は何度も心を救われてきた。
仕事でうまくいかなかった日も、
自分が嫌いになった日も、
誰にも話せなかったあの手紙のことを思い出した日も。
何も言わずに、ただそこにいてくれたこの子の存在は、
まるで“返事のない手紙”のようで、でも確かに私を見ていてくれた。
私は机の引き出しから、あの便箋を取り出した。
姉への手紙。
宛名を書けなかった手紙。
でも、いまなら書けるかもしれない。
少なくとも、「宛てる相手」のイメージは、ずっと前から心の中にあったのだから。
便箋の上に、私はそっと文字を走らせる。
「To:陽葵(ひまり)」
それは、姉の名前だった。
そして、私がこの子に贈る名前でもある。
「ひまり」
呼んでみた。
部屋の中に、柔らかくその音が広がる。
すると犬が、頭を持ち上げ、私の方を見た。
はじめて、名前を呼ばれた気がする——
そんな表情だった。
「ひまり。これから、よろしくね」
私はゆっくりと手を伸ばし、その頭を撫でた。
ふわふわで、少しだけ癖のある毛並み。
心の奥まで温かくなる感触だった。
あの子の名前は、「ひまり」。
姉の名前をこの子に託すことで、私はようやく“言葉にできなかった想い”を手放す準備ができた気がした。
この名前が、ふたりの新しい物語の始まりになる。
そう信じられた。