『手紙のかわりに』 第5話:新しい一歩

第5話『新しい一歩』
春の気配が、風の中に混ざっていた。
朝の光が少しずつあたたかくなって、部屋の空気がやわらいでいく。
キッチンに立つ私の足元には、ひまりが静かに座っている。
エサを待っているわけではない。
ただ、そこにいるのが自然のように、いつからか日常の一部になっていた。
「今日は天気、良さそうだね」
ひまりの耳がぴくりと動いた。
小さな返事みたいで、私の口元も自然とゆるんでいく。
便箋の上には、丁寧に宛名が書かれている。
「To:陽葵」
あの手紙は、ようやく完成した。
言葉にできなかった想い。
言えなかった「ありがとう」も、「ごめんね」も。
すべて、この手紙に込めることができた。
姉がいなくなったあと、私は心の中に蓋をして、時間だけが過ぎていった。
でも、ひまりがその蓋を、少しずつ、静かに開けてくれた。
“名前を呼ぶ”ということが、こんなにも深く、あたたかい行為だったなんて。
「行ってきます」
玄関でそう言うと、ひまりは少し首をかしげるような仕草を見せた。
まだ一緒に暮らしはじめて日が浅いけれど、この頃には“お留守番”の意味を理解してきたみたいだった。
「すぐ帰ってくるよ」
私の言葉に、ひまりは座ったまま、静かに見つめていた。
そのまなざしに背中を押されるようにして、私はドアを開けた。
出勤途中、ポストに手紙を入れた。
姉の名前を書いたあの手紙。
宛先は、存在しない場所。
でも、それでいいと思った。
この行為は、私の中で“過去を区切る儀式”であり、
そして、“未来を迎える準備”でもあった。
仕事が終わる頃には、日が傾いていた。
夕焼けに染まる空を見上げて、私は思った。
——ちゃんと、また前を向けてる。
帰宅すると、ひまりがリビングの真ん中にいて、私を迎えるように目を細めた。
「ただいま」
私がそう言うと、ひまりは立ち上がり、私の足元までトコトコと歩いてきた。
そして、ふわりとしっぽを一度だけ振った。
その瞬間、胸がじんわりと温かくなった。
あの日出会った「名前のない犬」は、
いま、私の大切な「ひまり」になった。
そして私は、もう“宛てられなかった手紙”を持たない自分になれた。
これから、ふたりで歩く日々はきっと、
静かで、穏やかで、だけど確かな一歩の連続になる。
そう信じられる春の始まりだった。